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写真
タイトル
説明
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1
別所線
別所線は上田駅方面の利用はしたことがありましたが、別所方面に行くのは初めてでした。 電車から見える山々や田園はのどかで、のんびりとした気分になりました。また、歴史を感じられる駅舎や駅の周りの風景はどこか懐かしいような感じがしました。 上田電鉄別所線の路線は不自然に曲がったクランク状になっています。理由は、別所線はもともと青木線と西丸子線の支線として建設されましたが、両線が廃止されたため、現在は支線部分のみが残っているからだそうです。
2020-10-17
2
真田幸村
あの大河ドラマでも有名になった、真田丸の雰囲気を味わうことができます。外見からも目立ちますが、お店に一歩足を踏み入れると、外見からは伝わらない豪華さに圧倒されました。関西や遠方からも訪れる人が多い印象です。歴史好きで入場無料好きにはたまらない場所だと思います。
2020-10-16
3
別所線
長野大学生などの大切な移動手段となっている別所線。その終点である別所温泉駅。 歴史を感じる趣のある駅である。 その列車には歴史があり、その列車のドアが丸いことなどから「丸窓電車」の愛称で親しまれ、別所線の主力電車として働いた。 今は引退して別所温泉駅に飾られている
2020-10-16
4
夜の加美畑神社
いつも通っているけど詳しくは知らなかったので足を運んでみることにした。 調べてみると、あの武田信玄公に縁のある神社らしい。 鳥居をくぐり少し歩くと二体の狛犬が迎えてくれる。 是非足を運んでほしい。
2020-10-06
5
日本三所信濃長谷観世音全図(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「日本三所信濃長谷観世音全図」(長谷寺)はその一つである。
2020-09-25
6
延喜式内子檀嶺神社境内全図(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「延喜式内子檀嶺神社境内全図」はその一つである。
2020-09-25
7
西内村 斎藤弥惣太(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「西内村 斎藤弥惣太」はその一つである。
2020-09-25
8
呉服太物商 瀬川清兵衛(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「呉服太物商 瀬川清兵衛」はその一つである。
2020-09-25
9
松平神社之図(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「松平神社之図」はその一つである。
2020-09-25
10
丸山平八郎邸宅(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「丸山平八郎邸宅」はその一つである。
2020-09-25
11
常磐城 西構山向源寺(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「常磐城 西構山向源寺」はその一つである。
2020-09-25
12
大輪精舎之図(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「大輪精舎之図」はその一つである。 タイトルには「長野県信濃国 大輪精舎之図 小県郡上田町」と記されている。 大輪寺(大輪精舎)は、真田昌幸による上田築城に伴い、砥石城の麓の畑山から移されたと伝えられている。大輪寺には真田昌幸の妻寒松院の墓がある。 参考資料:『上田市誌』第9巻「真田氏と上田城」2002年
2020-09-25
13
信濃蚕種組合事務所外部及内部之図(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「信濃蚕種組合事務所外部及内部之図」はその一つである。 信濃蚕種組合は1889年(明治22年)、藤本善右衛門(塩尻村)、工藤善助(丸子村)、田中忠七(上田町)、倉島弥平(神川村)、佐藤郡三(県村)の5人が発起人となって上田小県全域の蚕種製造家と販売業者が一緒になって結成した。良質の蚕種の製造と販売を保つため、蚕病検査、種繭の処理法、採桑の規定を設けて組合員に遵守させた。組合長の藤本善右衛門らは長野県に検査所を設ける運動を起こし、国会にも要請し1897年(明治30年)、蚕種検査法が成立した。その結果1898年(明治31年)、小県郡蚕種同業組合が設立された。1897
2020-09-24
14
蚕種製造酒類醸造 沓掛権右衛門(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「沓掛権右衛門」(旧塩尻村下塩尻)はその一つである。 沓掛権右衛門は、沓掛家当主が代々受け継いできた世襲名である。 図版「沓掛権右衛門」のタイトルには「蚕種製造酒類醸造」と添えられている。図からは1897年当時は手前が蚕種製造所、その奥が酒類醸造所であったことがわかる。現在は種類醸造所となり、建物は殆どが建て替わっている。図右端の建物のみ現在の建物と形状がほぼ一致する。ただし敷地の後方には虚空蔵山の裾野が迫っており、この図に描かれたような広大な姿であったかどうかは検証がいる。 なお、図版中のアルファベット記述は全てヘ
2020-09-24
15
佐藤尾之七邸宅(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「佐藤尾之七邸宅」(旧塩尻村上塩尻)はその一つである。 佐藤尾之七(さとうおのしち)家は、江戸時代から上塩尻村(現在の上田市上塩尻)で代々蚕種製造業を営んできた佐藤本家の分家に当たる。1727(享保12)年、本家から分家し六代嘉平次を襲名して上塩尻村の庄屋を営んでいた。尾之七は佐藤本家の当主であった藤本善右衛門縄葛(つなね 1815-1890)の四男で、分家の佐藤嘉平次家の養子となった。尾之七は1908年、佐藤本家を宗家とする佐藤一族が共同出資して発足させた藤本蚕業合名会社の設立に中心的に関わった。大正期、上田蚕種株式会社の社長となり、蚕種業界の
2020-09-23
16
藤本善右衛門邸宅(日本博覧図1897所載)
『日本博覧図』は関東を中心とした地域の名所旧跡、寺社、豪商の邸宅等を描いた銅版画集。1897年(明治30年)発刊の第12編には上田小県の寺社・邸宅等20点の銅版画が収録されている。「藤本善右衛門邸宅」はその一つである。 藤本善右衛門(ふじもとぜんえもん)は江戸時代から上塩尻村(現在の上田市上塩尻)で代々蚕種製造業を営んできた佐藤本家当主の世襲名である。昌信(まさのぶ 1773-1822)に始まり、保右(やすすけ 1793-1865)、縄葛(つなね 1815-1890)、信汎(のぶひろ 1850-1905)が藤本善右衛門を襲名した。 「藤本善右衛門邸宅」は、佐藤本家の邸宅である。佐藤本家は「藤本」を屋号としていた。1897年当時の当主は信汎(のぶひろ、1850~1905)である。 邸宅跡は現在は更地となったが、藥井門(1932頃再建)、外塀が残っている。 〔図版は上田市立博物館所
2020-09-17
17
別所線大学前駅の「信州の学海」説明板
「学問を志す者が大海に流れ込むがごとく集まる」ことが学海の意味するところです。 「凡そ経論に渉るの学者…遠方より来(きた)って皆至る」 歴史ある鉄道、別所線の大学前駅にた説明板「信州の学海」の謂れを記した説明板が掲げられています。長野大学の学生たちが設置したものです。しっかりと地元に「信州の学海」を明示してくれていてありがたい。
2020-09-12
18
信州の学海 秋の前山寺
信州上田には素晴らしい歴史と観光資源があるものです。とりわけここ塩田平は中世において「信州の学海」とも呼ばれたように、この地の寺院が学問の場となっていました。 秋のある日、気持ちよい気候に誘われて、塩田平を少し回ってきました。前山寺にも久しぶりに立ち寄ってきました。さらに秋が深まり、紅葉の前山寺はさぞかし美しいことでしょう。三重の塔のたたずまいの端正なこと。信州上田を代表する名勝地です。観光資源化した「前山寺のくるみお萩」についても改めて考察してみたいものです。
2020-09-12
19
「信州の学海」碑
かつて塩田を「信州の学海」と呼んだのは、鎌倉時代の高僧・無関普門。遠地へのアクセスも困難であった当時、遠方から学問を修めに塩田の地まで人々がやってきたことを象徴する呼称です。「学びの海」、なんとまた意味深い言語化かと思います。 塩田中学校に「信州の学海」碑があります。 「信州に却回して塩田に館す乃ち信州の学海なり」 確かに碑にその謂れが刻まれています。 cf.塩田中学校のホームページにも紹介されています。
http://www.school.umic.jp/shioda/2008/0603-104114.php
2020-09-12
20
信州上田学A2020③上田のひもとき方と情報源
オンデマンド講座
▼第3回5/13講座 講師:前川道博(長野大学) 57分
(市民開放講座第1回)
講座資料
記録日: 2020/05/13
参考資料
★
上田市歴史文化基本計画
★上田市中心市街地地図 1928年
→
大日本職業別明細図之内-信用案内昭和3年(1928)
★
2020-09-02
21
勝俣英吉郎と上田市民大学
上田市の勝俣英吉郎は蚕都上田の絶頂期に当たる1922年、第2代市長となり文教に重点を置いた施策を次々と実施します。その一つに「上田市民大学」があります。勝俣自身、上田自由大学の聴講生でもあり、「先ず郷土を知れ」の信条のもと、後に『上田市史』(1940)を執筆する藤澤直枝を起用し、地域に密着した学習を奨励したと言います(下記参照)。 地域学習の原点としても顕彰される実践です。 -----------------------------------------------------
上田市民大学開講
上田自由大学の聴講生だった勝俣英吉郎は大正十三年七月、市長に就任すると同年九月に上田市民大学を発足させました。勝俣は図書館の充実、市営運動場建設、徴古館(現上田市立博物館)の開館など社会教育重視の施策を打ち出しましたが、市民大学開講もその一つでした。「先ず
2020-08-25
22
山本鼎/農民美術 農の心ここに輝く
山本鼎(やまもとかなえ 1882~1946)が起こした農民美術運動を解説した映像コンテンツ。30分。 制作:上田市/上田市マルチメディア情報センター、2000年制作。 著作:上田市/財団法人地域創造 こちらには上田市マルチメディア情報センターがYouTubeに公開した映像コンテンツをリンクし再掲しています。
2020-08-19
23
見返りの塔
大宝寺三重塔は1333年に建てられました。という歴史であり、国宝にも指定されています。 塔の美しい姿につい振り返り眺めてしまうことから「見返りの塔」という呼び名があります。 拝観では、間近で見ながら、周辺を散策することができます。 公式ホームページ:https://www.daihoujitemple.com/
2020-08-09
24
猫瓦
猫瓦という独特な瓦の家。上塩尻地区にたくさんあった。猫瓦は、蚕糸業の家に多く、養蚕農家を悩ますネズミの食害の魔除けとして使われた。歴史を感じる。
2020-08-09
25
藤本蚕業歴史館内部-4
歴史館内部資料の一部。賞状や人工ふ化装置の構造の説明などが展示されている。人工ふ化装置の存在は、蚕種製造業が科学的に行われていたことの証明になり、私はそこに興味を持った。
2020-08-09
26
藤本蚕業歴史館内部-3
歴史館内部の独特な構造。内部では、このような配管などにより、空気が循環されていて、蚕に適した環境が保たれていた。障子戸などまるで民家のような作りであるにもかかわらず、蚕種製造の工場の役割を果たしていた事は興味深い。
2020-08-09
27
藤本蚕業歴史館内部-2
歴史館の資料の一部。当時の上田の文化が垣間見れる。
2020-08-09
28
藤本蚕業歴史館内部-1
歴史館にある説明文。当時の上田の蚕種輸出による繁栄を伝えている。写真には、その繁栄ぶりが詳しく書かれ、特に、62万石という有名な大名と同レベルの生産を誇っていたことは驚愕に値する。
2020-08-09
29
藤本蚕業歴史館
上塩尻にある藤本蚕業歴史館。藤本工業株式会社が前身である藤本蚕業の社屋に2009年に開館した。蚕種製造業に関する様々な資料が展示されている。
2020-08-09
30
塩野神社
独鈷山の山麓にある塩野神社には、水神が祀られています。独鈷山の透き通った湧き水である渓流に架けられた太鼓橋や、苔が生えて中心が窪んだ岩の中にあった綺麗な水が印象的でした。古くからある様子で、自然と調和している雰囲気に凄く魅力を感じました。自然の中に溶け込んだ、歴史を感じることができる場所でした。
2020-08-08
31
絵馬ロード
たくさんの絵馬がかけられている一本道。参拝者はここに絵馬をかけ願い事を成就させる。絵馬のデザインにも複数あり、真田の家紋や兜のデザインなどがあった。人々の様々な願いがありとても印象的でエモを感じた。
2020-08-08
32
上田城跡 本丸東虎口
上田城跡地の城門。今は訪れた人を迎える門となっているため常に開きっぱなしの状態になっている。この門は市民の協力の下で買い戻されたというエピソードがある。上田城跡地のシンボル的な存在であることに間違いない。
2020-08-08
33
経塚(堂寺畑)
経文が出土したそうだが、未調査であり地蔵様が鎮座されている場所。 昔は堂寺畑と呼ばれた地域。 古い時代(仙福寺建立以前?)には寺があったと思われている。
2020-08-07
34
上塩尻 蚕種製造民家まちなみウオッチング
私の所属するJIA(日本建築家協会)長野県クラブと、長野大学前川道博研究室において、上田市上塩尻地区に残る蚕種製造民家や歴史的な街並みの見学会が行われました。全国的にも珍しい民家建築が多く残るこの地の未来に向けた保全や活用方法を考えるきっかけとして、企画されたもので、詳しくはJIA長野県クラブのHPの会員レポートをご覧ください。 https://jia-nagano.com/blog/9487.html
2020-08-07
35
別所温泉の岳の幟行事
この行事は、夏の旱魃を契機に始まったと伝えられるもので、別所温泉の大湯・院内・上手・分去の4地区が1年交代で当番になって実施する。夜明け前に当番地区が、夫神岳に反物を持って登り、神社に雨乞いを祈願する。次いで竹竿の先に反物を結びつけた幟を担いで下山する。別所温泉に着くと、出迎えの獅子舞とささら踊りが踊られ、翌年の当番地区が幟を引き継ぐ。次いで幟の行列が町を練り歩き、途中、牛頭天王の神輿と合流して別所神社に向かう。別所神社に着くと、当番地区が幟を社殿横に立てかける。 選んだ理由としては上田市にいるのに見たことがなかったので、ぜひ参加してみたいと思ったからです。
2020-08-06
36
法住寺虚空蔵堂
虚空蔵堂(こくぞうどう)は平安時代に創建されたと伝えられる天台宗の古刹(こさつ、古い寺)・法住寺の信仰の中心となっています。堂名の虚空蔵が部落名になっているほど地域信仰の中心となってきました。 選んだ理由としては国の重要文化財に指定された程大切な建物で、もちろん依田窪(よだくぼ)地方最古の建物であることから行ってみたいと思ったからです。
2020-08-06
37
天台宗別格本山 北向観音
北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています。寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。堂が北に向いているのは、わが国でもほとんど例がありません。 選んだ理由としては北向観音堂は全国的に珍しい建物で面白さがあると思ったからです。
2020-08-06
38
前山塩野神社拝殿及び本殿
独鈷山〔とっこざん〕の北の山麓に位置し、その古さを物語る大きく深い森につつまれた神社が前山の塩野神社です。神社の前には太鼓橋がかかっていますが、その下には独鈷山の清らかな湧き水が滝となって流れ、それがやがて本流の産川と合流して塩田平を潤〔うるお〕しています。 この建築物を選んだ理由としてはこの神社には建物の歴史と言える棟札が、文明年間より今日まで30枚そろっていることや「甲子〔きのえね〕大祭」といって60年毎の神事が継続され、盛大に行われているため、いつか行ってみたいと思ったからです。
2020-08-06
39
安楽寺八角三重塔
安楽寺にある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定されました。「国宝」といえば、「世界的にみて国民の宝とすべきもの」(「文化財保護法」)となっていますので、この塔は長野県が世界に誇る貴重な文化財ということになります。 この建築物を選んだ理由としてはふつうの塔は四角のものですが、この塔は「八角形」であるという希少性から、他の人にも知ってほしいからです。
2020-08-06
40
散歩中に発見した石碑
道祖神を祀る石と文字碑であり、長野県内でも最も確認数が多いのが佐久市である。 無加工の自然石を道祖神と名付けて祀っているそうだ。 文字碑と双体像が一緒になっており、古くからの石神信仰が想定されるうるものである。 また、この地区に伝わる道祖神祭りという夏の行事にも関りがあると考えられ、発祥については不明点が多いものの佐久市内でも最古の行事のうちの一つであるという説もある。
2020-08-06
41
外側から見た八幡大神縣社
八幡大神縣社を外側から撮った写真。社の周りは杉の木に囲まれており、こちら側からは見えない。 周辺が住宅街であり開けた土地であることが、この一帯のミステリアスさを際立たせている。遠くから見ても、この場所だけ高い木に囲まれており、神聖な場所であることを感じた。
2020-08-06
42
産川近くから撮った生島足島神社 御旅所社
生島足島神社の御旅所社の鳥居が遠方に見える風景。この場所は、生島足島神社からは少し離れた場所に位置する。この鳥居の先には、八坂刀売命を祀る小さな石の祠がある。 周辺は田んぼと住宅に囲まれている中に大きな鳥居が見え、遠方でありながらもかなりの存在感を放っている。人工物の中にあろうとも、どことなく神聖な雰囲気を感じた。
2020-08-06
43
砥石城・米山城
県の史跡に指定されている山城。城跡からは上田市街と真田の町並みが一望できます。 この地方に勢力を張っていた村上義清の重要な拠点であり、武田信玄が2度目の敗北を喫した「砥石崩れ」の舞台です。 2009年のアニメ映画館「サマーウォーズ」の舞台となりました。 三方を崖っぷちで囲まれ、攻めてくる敵を迎え撃つのにもってこいの地形と見晴らしの良さ、理想的な山城に思えます。 軽く登山ですが、よく整備されて、登りやすいです。 朝遅く出て、ゆっくり登っても、午前中に降りて来られます。 小学生の遠足で行くようです。 駐車場あります。無料。 上信越自動車道・上田菅平ICから、車で約5分で着きます。
2020-08-03
44
真田神社
上田城跡公園近くにある真田神社。 入り口や参拝場付近に複数の言語で書かれた注意書きや説明書きがあり、とても親切。改めて観光地なんだなあと実感。 赤色の絵馬のトンネルがフォトジェニック。思わず写真撮りたくなっちゃう。 参拝の際に盲者のために音声ガイドが付いていたり、鈴が手をかざすとセンサーが反応して鳴る仕組みだったり、いろいろな工夫がされていて素敵だと思った。 道も舗装されているので、神社内は車いす利用者とかでも参拝できそう。 奥には真田の井戸もあったがここは舗装されていない砂利道だった。 思った以上に規模が大きくはなかったが、行ったことがないのなら一度行ってみるのもいいと思う。
2020-07-26
45
真田山種月院長谷寺
曹洞宗の寺院 長野県上田市真田町長4646番地 真田幸隆と真田昌幸の墓があります。 2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の頃に道路や駐車場など整備され、行きやすくなりました。 春にはしだれ桜が見事です。 今(7月)は、紫陽花の季節です。 本堂の扉が閉まっているので、自分で開けて参拝します。本堂に上がってお参りできます。 終わったら必ず閉めます。山のお寺なので、野鳥や動物が入ってしまうそうです。 写経を奉納し、御朱印をいただきました。
2020-07-24
46
人物87 宇平次
宇平治は佐七の子にして世々商を営み、始め(略) 以下続きにその事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1301頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-23
47
人物52 久米由太郎
喜永五年二月二十四日江戸小石川小日向新坂に生る。(略) 以下続きにその事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1265頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-23
48
人物11 井上直元
直元は上田藩士。元彼の子。(略) 以下続きにその事跡を載す。 『上田市史・下巻(1940)』1204頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-23
49
『上田市史』1940年「人物伝」のウェブ化
『上田市史』1940年「人物伝」のウェブ化を「マルチメディア論2020」の課題として受講生に取り組んでもらいました。その担当教員(前川道博@長野大学)の評価コメントです。
2020-07-22
50
みすゞ飴本舗
100年以上の歴史があるここ「みすゞ飴本舗」では信州の伝統であるみすゞ飴を販売しています。飴だけでなく、四季のジャムやゼリーな様々な果実の風味を楽しむことができます。また、お店は大正13年から現存している歴史ある建築物であり、店内も大正の雰囲気が味わえる素敵な空間でした。ぜひ、訪れてみてください。
2020-07-21
51
人物88 くさ女
房山村博助の女なり。 昭和四年四歳にして野武村の四郎兵衛の養女となる。 明年四郎兵衛死し養母の手に育てられる。 『上田市史・下巻(1940)』1301頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
52
人物53 正木直太郎
安政3年11月9日上田藩士正木六郎左衛門の長男として上田市木町に生まれる。 母つねは須坂藩駒澤氏の女なり。 『上田市史・下巻(1940)』1266頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
53
人物12 桂道信
道信は上田藩士。 通称は四郎兵衛。 『上田市史・下巻(1940)』1205頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
54
繭蔵1
みすゞ飴本舗の駐車場にあった建物。昔は繭蔵として使われ、上田駅への輸送基地になっていた。和風で、歴史を感じさせる。
2020-07-20
55
人物23 上野尚志
上田藩士。(略) 幼にして山田篁軒學び、弱冠にして古賀伺庵(精理の字)に従ひ、昌平校に學ぶ、暇あれば四方に遊歴して、文武の士を訪ふ。 『上田市史・下巻(1940)』1215頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
56
人物72 はん
はん女は上田城下の人にして父を源七と云ひ、母をすてと云ふ。(略) 時に延享元年にして、母年五十三、女年二十(封内 孝民傳) 『上田市史・下巻(1940)』1108~1109頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
57
人物31 小島玉馬
玉馬は麦二の子。(略) 年六十四。 『上田市史・下巻(1940)』1041頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
58
人物75 長吉
房山村の人なり。父を長左衙門といふ。 『上田市史・下巻(1940)』1294頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物34 活紋
活紋 松本藩士森久米七の第二子にして、安永四年生る。 『上田市史・下巻(1940)』1133~1135頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物82 栄次郎
鍛冶町の人なり。父を市郎右衛門といふ。鍛冶を以て業とす。幼にして孝、長じて益々敦し。 『上田市史・下巻(1940)』1298頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物67 黒澤鷹次郎
利左衛門の長男、嘉永二年十一月二十三日南佐久群崎田村(現今穂積村宇崎田)に生る。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1285~1286頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物45 赤松小三郎
本姓は蘆田氏、幼名を清治郎、忌み名は友裕叉惟敬と云う。天保二辛卯年四月四日上田木町に生る。 『上田市史・下巻(1940)』1244~1259頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物79 勘五郎
鎌原村の人なり、父を太右衛門という。家貧しくして居宅田圃なし、且つ父若き時より酒の故を以て身修まらず、これがため窮することまた甚し。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1295~1296頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物38 八木剛助
上田藩士にして享和元年生。名は千之、通称は剛助後興一右衛門、 籟洞と号す。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1236~1237頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物04 真田幸村
幸村は正幸の代二子、永禄十一年甲州躑躅ヶ崎なる真田屋敷に生ると云う。 『上田市史・下巻(1940)』1196頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物77 仙之助
仙之助は幼にして横町の太右衛門の贄、養父母に事えて孝養を蓋して怠らず。(以下略) 以下真田氏篇第三章にその事跡を載す。 『『上田市史・下巻(1940)』1111頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物24 櫻井純造
上田藩士。徳基の長子。文政九年十一月十五日上田に生る。 『上田市史・下巻(1940)』1216頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-20
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人物20 山田貫兵衛
上田藩士 兵藏の子。文化十年に生る。名は定吉、通称を貫兵衛。後永胤と改む。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1027~1030頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-19
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人物83 まつ女
鎌原村清之丞の女なり。四歳にして孤となり母に事えてよく其意に順う。 『上田市史・下巻(1940)』1298頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-19
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人物73 重次郎
重次郎横町の商人重右衛門の子なり。
2020-07-19
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人物32 宮下弁覚
上田紺屋町の醫(くすし)。後藩に仕う。
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人物42 植村重遠
上田藩士。通称半兵衛。(略)数理を好み竹内武信の高弟なり。仕えて会計の吏となる。 『上田市史・下巻(1940)』1242頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-19
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人物71 藤三郎
海野町の商人仙右衛門の子なり。(略)時に年四十九。(封内考民傳)
2020-07-19
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蚕都上田ストーリー「蚕の卵は世界を救う」
★YouTube「蚕の卵は世界を救う」 25分
2019/10/05「キモノマルシェin上田」で30分、ミニレクチャーをしました。 ★YouTube「蚕の卵は世界を救う」ダイジェスト版 5分27秒
「蚕の卵は世界を救う」。これは誇張でもほら吹きでもなく、歴史の真実です。レトリックはありません。 19世紀中葉、蚕が全滅したヨーロッパの絹文化を救ったのは日本産の生糸、というよりも、日本の蚕種です。種が絶滅したわけですから、本当に喉から手が出るほど欲しがったのは生糸では
2020-07-18
75
第二代上田市長・勝俣英吉郎の像
上田が興隆した背景には蚕糸業の興隆があります。蚕糸業で発展した上田は1919年に市制を施行し、その頃から「蚕都上田」と呼ばれるようになってきました。歴代市長の政治的貢献も顕彰すべきものでしょうが、歴史的には第3代・成澤伍一郎、第4代・伊藤傳兵衞のネームバリューの大きさからかどうも第1代、第2代の影が薄いのは否めません。 市制施行からもかれこれ100年近くが経ち、当時の市長を知る人などはこの世に存在しなくなりました。上田城跡公園の中にひっそりと佇む銅像があります。それが、第2代市長・勝俣英吉郎の像です。 勝俣こそ蚕都上田の絶頂期に市長を務めた人物です。1929年の世界恐慌で蚕糸業のみならず、日本が一挙に大不況に陥った直後の1930年に逝去したというあたりも不思議に象徴的です。 この顕彰像、面白
2020-07-18
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蚕の里サロンの地域景観セミナー2016
上田市小牧にある「蚕の里サロン」で地域景観セミナーに参加した際の記録です。 ★シルク文化地域コミュニティー 遊び学び体験、絹の里づくり 2016/11/20(日) 建築家が語る「蚕都うえだ」「地域愛&歴史景観」 お話されたのはミサワホーム総研の大谷宗之さんです。 いくつかの興味深い視点を提示されました。 ・その地域が持っているキャラクターに着目 ・なぜ建物がそういうふうに建っているのか ・なぜこんなに密集しているのか 上田の場合、養蚕がポイントになる。寒い時は室内を暖め、暑い時は風通しをよくする。空気が読めないと蚕は育てられない。 大谷さんは英国や南プロバンスの地域景観などを紹介しながら、上田らしい景観と地勢的特色のある事例として、小牧、上塩尻、別所を採り上げていました。非常に平易な解説で私も
2020-07-18
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旧小県蚕業学校の校歌
2017/01/28投稿、マイブログからの転載。 長野大学に赴任した最初の年、まだ蚕都上田や小県蚕業学校などの予備知識がなかった頃、上田東高校を視察で訪れ、たまたま目にしたこの校歌に驚愕しました。「校基百年」碑の裏面に刻まれています。 作詞 土井晩翠 作曲 岡野貞一 小県蚕業学校は1892年の創立です。明治以後の唱歌で最も著名な作詞家、作曲家の名前を見て、何という歴史のある学校かと。さらには歌詞がただ事ではない。 3番まで歌詞がありますが、2番の歌詞は少し来るモノがあります。 ♪国の富増し 世を利する わが蚕業の 尊きを あけくれ常に 胸にして 青春の子ら 励み合う 富国の中核産業であった蚕業を担う人材を育成する使命が謳われています。蚕業の尊さを明けても暮れても胸にして励まし合う。土井
2020-07-18
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『蚕種同業組合沿革史草稿』大正7・8年頃
歴史を開ける扉。タイムカプセルと言ってもいい。 2017/06/03、上田蚕種を訪問しました。その際に、手塚社長からこんな史料があると見せていただいたのが『蚕種同業組合沿革史』です。「長野県小県郡蚕種同業組合沿革史草稿」がタイトル。前編・中編・後編・続編と4分冊になっています。 「大正七年九月三十日 長野県小県郡蚕種同業組合 組長 中島精一」と記されています。1918年…と言えば、上田町が市制を施行する1919年の前年に当たります。蚕都上田が全盛を迎えた時代と言ってもいいでしょう。 史料の中味は見ていませんが、しっかりとした装丁の文書であるにもかかわらず「草稿」と題されているのは、「望ムラクハ訂誤ノ行クベキモノアラバ請フ垂教忌憚ナカランコトヲ」と末文に記されているように、「誤謬があればはばかるこ
2020-07-18
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人物54 河内山寅
河内山寅は安政二年八月二十六日、旧上田藩士河内山長善の長女として、上田藩鷹匠町に生れる。(略) 刀自は常に「憂き事の尚此の上に積れかし限りある身の力ためさん」「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん」との二首を座右の銘となしたりと云う。 『上田市史・下巻(1940)』1267・1268頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
80
上塩尻蚕種製造民家群
全国一の蚕種製造地といっていい上塩尻の蚕種製造民家群。古いまちなみの地区は全国に数多くあっても蚕種製造民家群がこれだけの規模で現存している地区は国内では稀有です。世界一の蚕糸王国であった日本の蚕種製造の中心地として並外れた価値を持つ産業遺産ではないかと思います。これこそ「世界遺産」にふさわしい。 上塩尻蚕種製造民家群はこれまでにも全国的に関心を持たれる節目がありながら、それをステップに次に踏み出しきれなかった経緯があります。 ふり返ってみると小林昌人氏による集落・民家の調査レポートが古い(「蚕業の先駆者を輩出した上田市 上塩尻の集落と民家」『信濃』1990年1号)。同氏による『写真集 民家の風貌』(1994年)にも上塩尻の民家が収録されています。大がかりな調査事業としては上田市による「塩尻地
2020-07-18
81
下塩尻蚕種製造民家群の佇まい
2017/11/27の記録。日本一の蚕種製造地を私は「上塩尻蚕種製造民家群」と呼んできましたが、より包摂的には「塩尻地区蚕種製造民家群」と呼ぶのが適切です。本日、日本ナショナルトラストのUさんが上田に来訪され、地元の方と塩尻地区(秋和・上塩尻・下塩尻)を見聞しました。 下塩尻はこれまであまり見聞したことがなく、地元のMさんの御案内で私も認識を新たにしました。下塩尻は北国街道沿いばかりでなく、千曲川沿いの一帯に「蚕種製造民家群」が集積しています。上塩尻と違い、千曲川沿いの低地に屋敷が広がっているせいか、一軒一軒の家々の敷地が広く、狭いところに屋敷がひしめきあう上塩尻とは対照的です。総じてゆったり感があります。その佇まいが下塩尻の景観をなしています。川べりという立地のせいか、集落の景観が群馬県
2020-07-18
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学生と旧常田館製糸場を見学
2018/05/10午後、1年生のゼミで「上田まちなか探検」を実施しました。最初の約1時間、常田館製糸場を見学しました。常田館製糸場は製糸工場の産業遺産で、笠原工業が管理しています。重要文化財に指定されています。2年前の2016年、天皇皇后両陛下が視察で訪問されました。 蚕都上田の中でも常田館製糸場は代表的な上田の製糸場です。1900年に創業しています。歴史ある産業遺産であるにもかかわらず、上田の地元住民でも知らない方が多い。 見学当日、笠原工業の笠原会長が1年生17人に対応をしてくださいました。次世代を担う若い学生たちへの産業文化の伝承というミッションをお感じになってのことと思います。蚕糸業のことを平易に手短に解説をされ、皇后陛下とのお約束だからと、皇室の養蚕に関するビデオを見せていただきまし
2020-07-18
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小県蚕業学校(上田東高)の校歌
2018/05/10、1年生ゼミでの上田探検。信州大学繊維学部に続き、上田蚕種へ。信大の裏口から実にアクセスしやすいミニマムパスを見つけ、そのパスを抜けると旧小県蚕業学校(上田東高校)の真ん前に出ました。 小県蚕業学校は全国で営まれていた養蚕を各地で指導する養蚕教師を養成していた中等教育機関です。全国からここへ養蚕を学びに生徒が集まっていました。国の基幹産業でもあった蚕糸業(養蚕)を支える人材を育成していた学校です。このような言い方が適切かどうかわかりませんが、現在は全国のどこにでもあるいわゆる「普通高校」と化してしまいました。かと言って蚕業学校のまま、現在に残るわけにもいきません。普通高校と化したのはやむを得ない。 この学校の歴史の重さはその校歌にも刻まれています。通過する道路際から
2020-07-18
84
上塩尻元宿・蚕室民家の佇まい、清水さん宅
2018/11/05、上塩尻・元宿の清水さん宅を訪れました。元宿は上塩尻の中心である北国街道沿いの大村とは違い、千曲川沿いの平坦な土地に広がる区域です。かつて千曲川の大洪水により壊滅的な被害を受けた歴史的背景があります。その一方で、千曲川の上流から運ばれる肥沃な土砂が桑の栽培に適し、この地の蚕種製造を育みました。この条件は千曲川沿いに広がる下塩尻にも共通しています。 清水さん宅の主屋は上田市の調査資料によると明治28年に建てられたらしい。蚕種製造民家の多くが明治20年代に建てられています。門の構えも立派です。中庭も丁寧に手入れがされて、屋敷全体の佇まいが美しい。家の品格というものを感じます。 清水さん宅の敷地からは上塩尻の中心の集落が遠望できます。背後に虚空蔵山系の山が一望できます。蚕種製造
2020-07-18
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全国町並みゼミで上塩尻をエクスカーション
全国町並みゼミが2018/11/16~18の3日間にわたり松代を会場に開催されました。全国から200名を超える人々が集う全国規模のイベントです。最終日11/18の午後、いくつかのコースに分かれてエクスカーションを実施しました。 私が企画したのは「蚕都上田エクスカーション」です。参加者は7名と少数ながら、全国から町並みに関心のある方々が参加しました。全国から来られた意識の高い方々だけに関心の向かい方も違い、案内する私の方が大きな刺激を受けました。地元の方々にも参加・同行していただき、直接、地元の方々と現地交流できたことも得難い体験として受け止めていただけました。give, then takeの大切さを改めて感じました。 当日は全国町並みゼミの午前のまとめ会の終了後、会場のロイヤルホテル長野をマイクロバスで出発。千曲川沿い
2020-07-18
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上田にモリス先生来訪
2019/11/30、千葉大学のマーティン・モリス先生が上田に来訪されました。翌日12/1のまちなかキャンパス講座「わたしたちの地域マップをつくる第3回」の講師を引き受けていただき、その前日のこの日、塩尻地区のある古い民家を地元の方々と見聞させていただきました。モリス先生はイギリス出身ですが、驚くほど日本の伝統建築に詳しく、訪問先の室内を簡易的に測定し、建築上の特徴などからその年代の推定までされていました。 少し驚いたのはフィートのメジャーで寸法を測り始めたこと。「あれあれメートルでなくていいの?」と思いましたが、よくよく考えてみればフィートと尺の単位は極めて近似しており、尺のメジャーの代わりにフィートのメジャーを使っているのだとわかりました。なるほど!です。 モリス先生は、長年上塩尻を研究
2020-07-18
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人物13 津田有栄
上田藩士。幼名有禎、後良基と改む。(略) 法名を教学院心休学道居士と云う。 『上田市史・下巻(1940)』1205・1206頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
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人物89 用八
用八は御所村の人なり。父を善四郎といい、用八八歳の時に死す。(略) 時に年四十三。(封内考民傅) 『上田市史・下巻(1940)』1302頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
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人物93 茂助
茂助は上田柳町の、(略) 『上田市史・下巻(1940)』1304頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
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人物58 三吉米熊
長州長府藩士三吉慎蔵の長男(略) 『上田市史・下巻(1940)』1272頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
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人物17 加藤維藩
維藩は上田藩士、(略) 『上田市史・下巻(1940)』1209頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
2020-07-18
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上塩尻文庫蔵
2017/09/26、長野県上田市の塩尻公民館に併設されている「上塩尻文書蔵」に潜入させていただきました。嘉永年間以後の文書が保管されています。希少なものは江戸期の地図など。上塩尻の歴史を解き明かすのに欠かせない資料(史料)の他、つい最近までの自治会の文書も保管されています。 目にする資料に接するたび、その時代に跳躍したかのようなワクワク感が沸き起こり、文書蔵=タイムカプセル体験の醍醐味を感じました。 ここに保管されている資料の他にも、上塩尻には藤本蚕業歴史館の他、個々人のお宅に私蔵されている資料があると聞いています。 東北大学の長谷部弘氏は「上塩尻には公私にわたる歴史資料が歴史学研究史上まれにみるほど大量かつ集中的に残されて」いると書いています(長谷部弘他著『近世日本の地域社会と共同
2020-07-18
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歴博の「上塩尻」蚕種製造に関する展示
2017/10/15、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(歴博)を訪れてきました。目的は、上塩尻の蚕種製造に関わる展示を見学するためです。展示場所は第三展示室の「知識と技術」のコーナーです。 「蚕を飼う」「養蚕技術の普及」「桑の葉の収集」「『蚕書の里』上塩尻村」「商品と技術と風雅の交流」「繭の歴年標本」「世界に知られた日本の養蚕技術」というパネル構成です。このうち、「繭の歴年標本」は奥州本場蚕種の梁川の展示。他は全て上塩尻です。 資料として展示されているものは次のとおりです。 ・清水金左衛門『養蚕教弘録』1847 ・清水金左衛門『養蚕乾湿計用方』メガルカヤを利用した養蚕乾湿計 ・座間神社句合わせ ・いははな集 1800年 ・「いははな集」参加村と蚕種の行商先 など。 展示は杉仁氏の著作『近世の地域と
2020-07-18
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人物66 小林直次郎
慶應二年九月十九日小縣群青木村大字殿戸に生る。(略) 『上田市史・下巻(1940)』1284、1285頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇
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上田藩主/老中・松平忠固の墓
2018/05/10、願行寺にある松平忠固の墓を訪れました。上田藩主・松平忠固(1812~1859)は2度に渡り、老中をつとめた人物です。老中の職にあった時に、日米和親条約(1854年締結)、日米修好通商条約(1858年締結)を結んだことの功績は極めて大きい。日本が列強と互角に対し、列強並みの好条件で列強と貿易協定を結んだことは、その後の日本の近代化を決定づけたと言ってもいい。貿易を推進し、殖産興業を推進しました。 上田における松平氏に対する関心の低さは、この墓の状況が端的に物語っています。かつての願行寺は上田城と対峙するように大手町~海野町の旧城下町のメインストリートの対極に位置し、海野町の通りはその門前のように位置していました。しかし、その道筋が真っ直ぐに貫通し、願行寺の真ん中は道路によって分断されました。さら
2020-07-18
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上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する
2018/08/18、上田市上塩尻の蚕種製造民家群と文書を見聞する会を開きました。長野大学前川研究室、上塩尻自治会、上塩尻今昔の会の連携で実施したものです。地元上塩尻の方々を中心に、建築や歴史文化の専門の方などが加わり20名ほどが参加しました。 幕末から近代にかけて日本の産業を牽引した蚕糸業の中でも、長野県は蚕糸王国と呼ばれるほどに近代日本の殖産興業に貢献をしました。その中で上田小県は蚕都上田と呼ばれ、その中心地の一つでした。とりわけ上塩尻を中心とした塩尻地区は蚕種製造の一大中心地となり、江戸時代から幾人もの優れた蚕種製造家を輩出した他、各家が蚕種製造業を営んでいました。その当時の蚕種製造民家は現在もなお数多く残り、「蚕種製造民家群」という全国的にも稀有な歴史的景観地区となっています。
2020-07-18
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上塩尻の景観
2018/09/09、(長野県上田市)上塩尻へ立ち寄ってきました。北国街道沿いに広がる上塩尻の景観が美しい。それぞれの家々は街道沿いには塀がめぐらされて門が構えられています。飾り気がなく、シンプルな集落の佇まいです。特色あるのはそれぞれが二階建ての瓦葺の建物で、2階に蚕室が備わっていること。建物も塀も質が高く、それが趣のある文化的景観をつくり出しています。二階の蚕室の雨戸も景観に美しさを添えています。旧街道の道筋は車が1台通過できる程度の幅しかありません。車を屋敷の中に入れる事は不可能です。現代の生活に欠かせない車が屋敷の中にすら入れない不自由を抱えながら、古い建物が維持され、このような美しい景観が維持されていることに感銘を受けます。 西側に面している建物は細い路地に面し、窓のない木造
2020-07-18
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上塩尻の集落の模型(1992年)発見
蚕種製造民家群が数多く残る上塩尻の民家は1989年度から1991年度にかけて当時の工学院大学山崎弘研究室によって調査されました。それからかれこれ30年近くが経過し、その調査を知る人も少なくなったばかりでなく、所在がわからなくなっていた調査資料を最近になってやっと探り当てることができました。そのことだけでも大きな感動です。 そしてつい先日、その調査で作成された上塩尻の集落のミニチュアが発見され、眼前で確認しました。「長野県上田市上塩尻の養蚕民家集落 Scale:1/500 1992.3.28 工学院大学 山崎研究室」と記されています。 山崎研究室の調査では、上塩尻の蚕種製造民家のうち23軒が調査され、それらの民家については間取りも仔細に調査されました。それらの民家については実物そっくりのミニチュアが作られています。現在は
2020-07-18
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まちあるき「魅力新発見 蚕種の里・上塩尻を歩く」
2019/06/30上田市観光協会主催の上塩尻まちあるきに同行してきました。このまちあるきの企画は観光協会さんからご相談を受け、上塩尻の方々のご協力もいただいて実施したものです。 「観光地」のまちあるきではなく、歴史文化の素晴らしい地域資源を市民の皆様に触れていただく機会を提供し、地元をより深く知ってもらうことがねらいの一つです。 大雨が懸念されましたが、幸い、雨はやんだだけでなく、日差しが照り付け気温30度を超える過酷な気候条件でのまちあるきとなりました。 上塩尻の藤本蚕業歴史館に参加者が集合。私からも挨拶をさせていただきました。藤本蚕業歴史館を見学した後、藤本の蚕室を見学。「埋薪」(まいしん)という言葉を皆さん初めて接したようです。その後、加賀の殿様が参勤交代で使用した厠のある清水さ
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「UEDA SILK展」で気づく上田紬のカジュアル感
2019/9/27、上田市武石にある武石ともしび博物館に「UEDA SILK展」を見に行ってきました。8/2~10/27の期間開催されています。 武石ともしび博物館は武石地区の小高い丘の上にあり、立派な日本庭園を備えた回遊式の博物館です。大きく3棟に分かれています。 「UEDA SILK展」では上田紬をメインに、上田の蚕種・養蚕などに関わる展示もされていました。上田紬の展示は、小岩井紬工房の小岩井カリナさんの作品を中心に構成されていました。「紬」と言えば、結城紬、大島紬が有名です。「日本三大紬」と呼ばれることもあります。では3つ目の紬はと言うと、地元上田の方でも知らない方がいます。もちろん「上田紬」です。なぜ、結城紬、大島紬に対して、上田紬の知名度が低いのか。上田の活性化ということからも、地元の伝統工芸の発展ということ
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